04月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫06月

スポンサーサイト

--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告

生と向き合う 乳がんで逝った母に教えてもらいたいこと

2011年10月07日
世界仰天ニュースというテレビ番組で
乳がんで亡くなられた方について放映されていたことや、
アップルのカリスマ経営者、スティーブ・ジョブズ氏の逝去について
ブロガーさんたちの記事から様々な想いが響いてきた。
世界的に名を知られた革新的な業績を残した人と
市井のひとりの女性。

そのどの死も(今までの他の方のことも)
死ぬには若すぎることや
たぶん、私自身がガン患者であることから
より強く感じ取ってしまうのかもしれない。
それぞれの立場で、どう向かい合ってきたのか。

そして、若くして逝った母のこと。

小学校高学年くらいの頃?
ある日、母の位牌を手に取りじっくりと眺めたときに
命日が、自分の誕生日の前日であることを知った。
yannchanが小学校に上がるまでは・・・と望んでいたと
いつか聞いたことがあるけれど、
5歳の私を見ることも出来なかったのだった。

生母は看護師で、S大学病院で外科の婦長(現在の師長)を
していたのだそう。
外科だと自分がオペに立ち会う側だったのかな?

私は、母の記憶がまったくなく顔も声も知らない。
その年頃の他の記憶はあるのに。

すでに母が去ってからの生活の中で
ある日、自宅に注射器があることに気づく。
まだ、子供だったので
病院ではなく自宅(一般家庭)に
本物の(!)注射器が何故あるのか
とても不思議だったけれど、今にして思うと
母は自分でモルヒネを打っていたのかもしれない。

また、別のときに
食器棚の奥に洋風の水差しを見つけた。
ふだんはまったく使用していないもの。
「ママがお薬を飲むときのお水の準備
パパは『yannchanにやらせるんだ』と言って
貴女がそれで運んでいたのよ」と
後年、親族から聞かされた。

3歳の私、偉かったね。

父は、母との交流というか想い出を、
少しでも多くと考えたのかもしれないけれど
残念ながら、その記憶もない。

実は、記憶がないので、ほとんど「母が恋しい」的な
気持ちになることはなかった。
どういう人だったのかな?という興味―
というと語弊があるけれど―はあるのだけれど。
私が幼稚園の年中の夏に亡くなり
小学校入学前には父が再婚したので
あまり、生母のことを話してもらう機会がなかった。

ただ、毎年、お盆には必ず庭で「迎え火」をしていて
これは、貴女の母のためだ―ということを
継母からも言われたことがある。

いつか、いろいろなことを聞けるときがくるだろう
…と思っていた父もすでにいない。
母が「余命」という段階になったとき
「もう命がない」と伯母(父の姉)の前で
男泣きに泣いたことがあるという。

父と二人だけの生活のときの記憶で
一緒に眠りながら、痛いほど抱きしめられた想い出がある。
その時、私は「痛い」と自覚していたのだけど
なぜか、父に痛いということを告げてはいけないような気がして
言わなかった。父が何かに耐えているようなことを
感じていたのかもしれない。

同じ乳がんを発症してから
母はどう立ち向かい、どう生きたのだろうということを
とても知りたい。

放射線治療中、叔母の一人と話したときに
「そうそうママも毎日通っていたわよ。
 貴女を預かっていたの。」と言われ
当時も25日間だったのかな・・・とか。

術後すぐに見舞にきてくれた別の叔母が
「痛みがあっても辛そうな顔は見せず頑張っているわね。
貴女のママもそうだった。」と教えてくれた。

1歳の頃肺炎を起こし救急車で運ばれた私。
その時、母親が看護婦でなければ、
この子は助からなかったかもしれないと言われたらしい。
応急の手当てが良かったのかな?

母のことを、もっと知りたい。

母の葬儀のとき、私は泣いていなかったのだそう。
人がたくさん集まって賑やかに感じていたみたいよ。
「ママは神様になった」と貴女は言っていた、と。


(注)母が受けたのは昭和40年代の治療です。
 今から20年前くらいの時点でも
「現在の治療なら治ったのに」と言われています。


にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村

スポンサーサイト
家系樹 ファミリーツリー | コメント(30) | トラックバック(0)

祖母の遺伝子 

2011年10月10日
80年代?90年代初め頃だったかな?
“生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)”
みたいなことが流行りませんでしたっけ?
理系のヒトだけじゃなく、一般的にも何か噛み砕いたような形で
話題になったり、本が出たり(←あ、読んでません)。
昨日、自分で、祖母のことなどチラッと書いたりして
私は祖母(母方)の遺伝子が強いのかな~なんて思ったりもする。
とすると、祖母は96歳で天寿を全うしてますからね!!

祖母は明治生まれ。
「庄屋さんの娘」ということで、当時の信州の田舎では大事なお嬢さん、
だったのだろうけど“職業婦人”になりたかったそうで家出(笑)
当時、早稲田辺りに下宿していたらしい自分の兄たち
(お祖母ちゃんの「兄」って、私とはどういう続柄???)のところに
転がり込んだけど、一ヶ月くらいで連れ戻された―
という話を聞いた事がある。

のちに、家族に大反対されながらも祖父と結婚。
伯母たちの話だと、苦労するのは目に見えていたのに
お祖父ちゃんハンサムだったから~お祖母ちゃんぞっこん(笑)
ということだったらしい。
どういう事情か、はっきり私は知らないけど
祖父と祖母は後年、一緒には暮らしておらず・・・
祖父はあちこちを転々としていたみたい?

人生でびっくり仰天したことのひとつとして
高3のとき
「お祖母ちゃんが亡くなった」という連絡を受け
父と二人、高速道路を走りに走って東京から祖母宅に着いたとき
「忌中」の紙が貼られている玄関の引き戸がガラガラと開いた瞬間
祖母が階段を下りてくるのを目撃したとき!!
父と顔を見交わせ、言葉が出ないとはこのこと。
一瞬、誰のお通夜が行われているのか?!と脳内大混乱。

父が再婚してからも、生母方との交流も
途切れはしなかったけれど、そう頻繁なものでなく
どこかで連絡が錯綜したのか、それは祖父の葬儀だった。
親族代表の叔父の挨拶も「勝手なことばかりしていた父でしたが」
との言葉があり、祖父が何をしていたのかいまだよく分からない。

と、ちょっと横道に反れたけど
そう、祖母の話。
そんな、明治の家出娘だったり(娘時代はすでに大正だけど)
親の意に沿わない結婚をしたり(?)
自分が成し遂げられなかった夢を果たすべくか
娘を東京の学校に出したり、専門学校に行かせたり。
そして、娘たちのうちの三人は看護婦となった。

娘が先に逝ってしまうという
逆縁の苦しみも味わうことになってしまうけれど
多くの孫、そしてひ孫(私の従姉妹の子)の顔も見ることが出来
最後、2年くらいは少しぼけが始まったようだけれど
長く寝たきりや認知症になることもなく、
明治から平成までを生きたお祖母ちゃんでした。

父が亡くなった年、すでに応募していた学校のプログラムで
夏休み一ヵ月半ほどアメリカへ行けることになったのだけど
周囲には、まだ父親が亡くなってからから二ヶ月も経っていないのに…と
渡米を反対されていた。
でも、祖母にその話をした時は、
良い機会だから行ってくればいいと言ってくれた。

幼稚園の頃、当時、子供心にも「昔話に出てくる物語の世界みたい」
と思った、祖母の、そして母たちの育った山の上の家。
山からの清水を管に通し、“水道”として使い
土間に囲炉裏があって、天井からつるされた紐?鎖?に
大きな土鍋くくりつけられ、その囲炉裏端で焼いた
信州名物「おやき」は最高に美味しかった!
今でも、あれ以上美味しいおやきには出会ったことがありません。

藁葺きの屋根。
屋根裏には畑で採れた収穫物が貯蔵できるようになっていた。
一度だけの想い出だけど、鮮烈に残っている。

※後に、山を下り「町」での生活となりました。

従姉妹たちの中で、子供がいるコの方が少ないけれど
(残念ながら)私を経由はしなくても
お祖母ちゃんの(お祖父ちゃんの)遺伝子
そのずっと前のご先祖様の遺伝子は、受け継がれているんだなぁ。

※10月10日、ちょっと訂正。
文中の「長野」の語彙を「信州」に訂正。子供のころから
母方の親族の口からは故郷を言うとき「信州、信州」と聞かされてました。
長野県の方にとって「長野」とは「長野市」のことと、昨夜
何かで見かけて、今でもそうなのかは不明だけど、
私も懐かしさをこめて「信州」と表記。この方がやっぱりしっくりくる。
おやき食べたくなった~
でも、都内で手に入る冷凍ものとかは全然味が違うのよねー。

*********************************

古い父の写真。当時のモスクワにて

父モスクワ


にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村

家系樹 ファミリーツリー | コメント(6) | トラックバック(0)

叔父のがん 私のがん

2012年04月15日
水曜日、自分の通院のあと、入院しているという叔父の見舞いに行った。
叔父(私の生母の弟)が、がんに罹患したと知ったのは昨秋だった。

母方の親族とも、ひとりの叔母を除いて
長く会っていなかったけれど
私の入院をきっかけに伯母たちや従妹たちが見舞いに来てくれて以降
それまでよりは少し、連絡を取る頻度が増えた。
自分のその後の経過も伝えたりしていたので。

昨年5月の私の手術の後くらいに
健康診断で再検査の所見があり、精密検査を受けたところ
胃がん発覚。3分の2、胃を切除したのだそう。

私は、胃がんは(スキルス性を除き)
完治の見込みの高いがんだと思っていた。

だけど、私が見舞いに行ったときには
両腕には抑制をつけられ、絶飲食の状態。
医療用麻薬で痛みの緩和をはかっていた。

胃がんの確定診断の際、
骨シンチ等、遠隔転移の検査はしなかった模様。
乳がんは血流にのってがん細胞が早い段階から
全身に流れるといわれているけれど
胃がんはそうではない、ということでしなかったのかな?
そのあたりは分からない。あまり詳細は聞いていない。

(元看護師の叔母が電話越しに
早くに全身の検査をすれば良かったのに…的なことを、
ぼそっとつぶやいたけれど
今は良い治療をしてもらわないといけないから
それを言っても仕方ないとも。)

手術で腫瘍を取り除き、万全な治療を受けたつもりだったのに
また、体の痛みを訴え始め、骨転移が見つかり
放射線治療を受けたのだそう。

腰部や頚椎のあたりを照射した様子。

身長もあり、太っているということではなくて
体格もよく、元JR、昔の国鉄職員で組合運動なんかも
バリバリやっていた人だから
痩せて小さくなり、腕も足も骨のラインが分かる姿が切なかった。

たまに意識がはっきりする瞬間があり
寝たきりの姿勢が辛いと横向きにしてあげたとき
背中も肉がすっかり落ちていて、骨がごつごつとあたった。

―看てますから、抑制をはずして下さいと
看護師に言うのよー
と元看護師の叔母に言われていた。

私はよく理解してなくて
痛みの緩和のために意識レベルを「抑制」しているのか?
と勝手に解釈して、他の従姉妹からも
ほとんど眠っていて話は出来なかったと聞いていたので
なにかそんな風に思ってしまった(無知、思い込みは怖いです。
正しく理解できるまでしっかり聞いておくことが必要だなと反省)

病室に入ると
両腕を拘束(抑制)されている姿が目に入った。
無意識にあるいは意識的に点滴のチューブ等を
自分で取ることがないように。

私の姿を目に留めると
叔父が「これはずして」とつぶやいた。
その瞬間叔母が言った「抑制をはずす」の意味が分かった。

話も出来ないしそんなに長居はしなかったと
見舞いにいった従姉妹に聞いていたけれど
私はその日、自分の通院のため仕事もオフで予定もなかったので
夕刻まで傍にいることにした。
何もしてあげることは出来ない。
でも、私がいる間は、この「抑制」をしなくていい。

眠ったり、ちょっと意識が戻ったり。
水を飲ませてくれと言われ、看護師さんの許可を貰って
水差しを口に。早く飲ませてはいけないと言われていたのに
ごくごくと勢いよく飲んでしまった叔父。
絶飲食の指示が出ているということは嚥下がうまく出来ないのだろうと
これは、自分がオペを経験したからこそ分かることで
案の定むせて、なんども痰状のものを吐く。

看護や介護ということをしたことがないので
手当ての仕方がよく分からないけれど
「痰を取って」と何度も言われやってみた。
体の姿勢も変えたいようなので、少し横向きにしてあげたり。

でも、それは
叔母に見舞い報告をした際に、自分でやって何かあるといけないから、
看護師にやってもらはないとダメと言われました。
骨転移、放射線治療で骨折しやすくもなっているし
痰のケアについても逆に詰まらせてはいけないから。

さらに反省。

サバイバーとして共に頑張ろう。
頑張っている人に頑張っての言葉はあれだけど
私もサバイバーだから良いよね?

痛みがうまくコントロール出来るようになって
長く良い治療を続けていけるよう願っている。


ブログ村に参加しています。ワンクリックお願いします♪
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村
家系樹 ファミリーツリー | コメント(6) | トラックバック(0)

夢から醒めた夢

2012年04月23日
天候のせいか気持ちの浮き沈みが烈しい。

心が元気なら頑張れば出勤できたかもしれないけど
どんよりと辛くて起き上がることが出来なかった。
欠勤を伝える電話をするのも気が重い。
(先月も2日欠勤)

寝よう寝ていよう・・・と思ったら
寝すぎで頭痛?中途半端に頭が痛い。

夢の中で父に聞いていた。

ママは全摘だったの?

その瞬間、夢の中でこれは夢だーと気づいた。

父はもういない。
この家はもう取り壊されている。

私を置いて、父が死ぬはずはないと思っていた。
自分の5歳の誕生日の前日に母親を失った娘を置いて―

と唐突に「夢から醒めた夢」という言葉が思いついたのだけど
いつかどこかで聴いた言葉?
ぐぐってみたら、劇団四季のミュージカルなんですね。
ストーリーも知らなかったけれど偶然、死者のための物語?

34歳で、幼い私を残された父。

ちょっと風邪を引いて寝ているだけでも
「病院へは行ったのか?」と
これだけはくどくいつも言われた。

長く生きず、妻と同じ病にかかった娘を見ることがなくて
良かったのだろうか。

まだ学生だったので、
父とは、そう打解けた話も出来ないまま別離を迎えた。

いつか、母の話も
彼の辛い記憶も分かち合える日が来ると思っていた。

父の背をなでてあげたい。


ブログ村に参加しています。ワンクリックお願いします♪
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村


家系樹 ファミリーツリー | コメント(4) | トラックバック(0)

思いがけない旅立ち がんに奪われるもの奪われないもの―縁(えにし)

2012年05月23日
叔父が亡くなったとの知らせを受けたのは昨日。
今日、勤務を早退し夕刻から通夜に参列。明日告別式。
前回の見舞時から、こんなに早く別れがくるとは思わなかった。
転院先を探しているという話も聞いていたので
また、病院が変わったら見舞いに行こうと思っていた。

可能であれば、もちろん、長く生きて欲しいと願ったけれど
―それは、彼の家族のためにー
抑制され、飲食も出来ない状態のまま「生かされている」ことが
良い終末期なのかどうか…
それでも、生きてこの世に存在していることと「いない」ことには
大きすぎる隔たりがある。

サバイバーとなってから、初めての葬儀への参列。
「親族席」側にいること。弔問客に一礼されること。
それを返している自分。
ある種、不思議な感覚だった。

命を見送ること。

昨夜「ガイアの夜明け」の『終活』の特集で見たような
斎場には、叔父のこれまでのメモリアルの写真や
越し方が端的に纏められた文章が書かれたモニュメントや
孫たちからのメッセージカードや絵が飾られていた。
遺影も、明るく朗らかな笑顔の写真が使われていた。
昔のように黒いリボンで覆われたりはしていない。

自治会長や少年野球の監督をしたり
定年後も活発な活動をしていた叔父。
がん罹患から旅立ちまで、あっと言う間ではあったけれど
その一年を除けば、職務を全うし、
孫の顔も見ることが出来て、家庭的にも恵まれた
幸福な人生だったように思える。
73歳ーというのは、平均寿命よりは早いかもしれないけれど
飾られていた様々な写真や活動の記録を読み返してそう思った。
従兄弟たちにもそう伝えた。「叔父さんは幸せな人生だったね」と。

お坊さんは、叔父たち(私の生母の兄弟姉妹)
の実家方の菩提寺のある長野から
こちらまで出てきて下さっていた。

聞き取れるお経の言葉のひとつひとつが
胸に染み入ってくる。
―生あるものは必ず滅する―
でも、やっぱりそれは、遠い未来であって欲しい。
誰にとっても。

弔問の方々が、お清めの席に移られた後
祭壇の前でお坊さんが親族に向かってお話をして下さった。

本日、仏様は、こうして皆さんがお顔を合わせる
縁を作って下さった。
奥様はご主人に代わって今後は家族の支柱となることが供養
お子さんたちは、今までお父様がしてきた代わりに
お母様を支えることが供養
ご親族の方々は、このご家族の力になってあげることが供養です、と。

力になる―というのは難しいけれど
叔父ががんと向き合ったことは、しっかり記憶しておきます。

棺に横たわる叔父は、病室で会った時のように
やせ細った印象ではなく、精悍に整ったハンサムさんだった。

父の時のことを想い出した。
生きて呼吸をしている肉体と
もう呼吸をしていない肉体は違う。
それでも、まだ「肉体」がそこにあること。

火葬されて、もう「いなくなってしまった」ことが
本当に辛かった。

明日は叔母や従兄弟たちにとって
今日より悲しく辛い時間になってしまうでしょう…


ブログ村に参加しています。ワンクリックお願いします♪
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村
家系樹 ファミリーツリー | コメント(8) | トラックバック(0)

昨日は今日の昔

2012年05月24日
叔父の上の孫K太、5歳の存在が皆の慰めになっていた。
5歳児というのはどの程度「死」を理解しているのかな。
荼毘に付されたあと葬祭場に戻り、もう棺のないのを見て
遺影の後ろを覗いていた。
火葬炉に棺が入るところもしっかり見守り
お骨が骨壷に納められるのも興味深そうに眺めていたのに。

係りの方がご挨拶されたあと「ありがとうござました」と言ってみたり
弔問客に「さようなら」「遊びに来て下さい」と言ったり。

私の母は私の4歳、最後の日に亡くなった。
なので、葬儀のときには、私も「5歳」だったから
こんな感じだったのかな~と重ねてみた。
5歳の子供が「祖父」を亡くすのと「母」を亡くすのでは
周囲の大人にとっては悲しみの質が大きく異なってくるだろうけれど
後年、母の葬儀のときの自分の様子を
「貴女は泣いてなかったわよ。『ママは神様になった』と言っていた。
大勢のお客様が来て、賑やかに感じていたようだった。」と聞かされた。

K太も泣いてはいなかった。
焼香の仕方を不思議そうに眺め、そして自分も真似をし
小さな手を一生懸命合わせていた。

「さよなら」ということは分かっても
永久の別れであることが、まだ概念としてないのでしょうね。
この年齢では・・・

私もK太には初めて会った。
「故人が人々を会わせる機会を作ってくれた」のお坊さんの言葉通り。
祖父母の血が流れる、一番年少の男の子。

私の入院以来、一年ぶりに会った従姉妹たちとも
(でも、それまでは10年近く/以上?会ってなかった)
いろいろな話をした。
小さい頃訪れた祖母の山の上の家。
子供ごころにもこれは日本昔話に出てくるような風景だと思ったこと。
山の上の二軒屋。山の清水を管に通して土間のある台所まで運んでいた。
囲炉裏端でおばあちゃんが焼いてくれたおやきほど美味しいものとは
もう出会えないこと(市販のおやきは全然ちがうの!)
縁の下や屋根裏には穀物や野菜の倉庫?があり
家の裏には畑が広がり、雲がたなびく-ような。

ファミリーツリー

母の姉にあたる伯母に頼んでおいた
母の昔の写真をもってきてもらった。


向かって左から二人目が母。なんでしょ?これ。
昔の検体検査中???

左端が父。手を繋がれているのが私。
すでに飽きてやさぐれてます(笑)
母は映ってません。シャッター係だった?

向かって右から母・父・祖母・(写真をくれた)伯母。
明治の家出娘
すでに、母は当時のハルステッドの術式で、胸を切除した後。
32歳くらいかな?当時の大人は大人だねー、と
アラフィフの従姉妹たちと言っていたのでした。

まだ見ぬ未来。

こんな写真も発掘されました。
まったく顔が変わってません。来月はじめまして-の皆さま。
「間違い探し」ではなく「間違いなく」こんなヒト。
今、ヅラ脱ぐとまさしくこんなつんつんの髪。
眉毛の形もこの頃に固定化されたのね。
修正しないとこんな眉~

二十歳頃、見知らぬ(私にとっては)人にいきなり道端で
「○○幼稚園で一緒でしたよね?」と声をかけられたことあり。

ブログ村に参加しています。ワンクリックお願いします♪
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村
家系樹 ファミリーツリー | コメント(8) | トラックバック(0)

住職と放浪の話で盛り上がる

2012年10月27日
伯母の葬儀は、お寺でささやかに執り行われた。
継母と異母弟と私。

お寺さんに着いて、継母の顔を見た瞬間
さすがに老人と言ってよい風貌になっていて驚いた。

私はこの人に会うと緊張する。
また、何か不快なことを言われるのではないかと。
そして、この年老いた女性に向かって
何かを言い返すであろう自分の姿を想像すると
うんざりするのだった。
それは、理由はともあれ、
あと数年で八十になろうとする人に対して
たった今実の姉を失った人に対して
自分が引いてあげることができないのか?という
すでに、何かが起こる前に、様々な場面を想像して疲れてしまう。

だから、会わないーということが最良の方法なのだと。

ひとつ、ふたつ、(みっつ?)あれこれ言われることはあったけど
ひとつはぴしゃりとさえぎり(子供時代から30代までは
飲み込んで黙ってしまうことが多かったけど)
あとはまあなんとか平和裏に過ごせたかな?
葬儀社のスタッフや(スタッフの方が多いくらい)住職もいらしたし。
あと、もうひとつ、伯母が荼毘に付されるのを待っている間
ー私たちと住職の4人でテーブルを囲んでー
継母が弟のことを、四十路過ぎなのに、
しっかりしてない的なことを言い始めたとき
父方の親戚にも、うち(私の生母方)の親戚にも
性根の優しい良い子、yannchanなんかよりきちんとしていると
評判いいのだから!!と遮った。評判いいだけでは…とブツブツ
言い始めたところを、住職も話を引き取ってくれて。

だから、息子も義理の娘(!)も家に寄り付かないんだよ~(心の声)

まあ、そんなことはさておき。

住職のお父様は私の生母のお経を上げてくれた方。
その先の住職は亡くなられているけれど
奥様は95歳でお元気だそう!

母の記憶はほとんどないのだけど、葬儀のことは覚えているの。
先の住職が、大人たちがお骨を拾っている間
ずっと私と手をつないでくれていたこと。
大人たちはなにか熱い台の近くにいるな~と思ったこと。

葬儀のときも私は泣いていなかった、なにか人が大勢来てくれて
賑やかな感じに思っていたようで「ママは神様になった」と
言っていたらしいです。
あ、住職の前で(「仏様」でなくて)神様なんて言って申し訳けないけど。

そんなこんなで話が弾み?
私は放浪者だから発言が住職から。
あ、私もです、お揃いですね!

どのあたり行ったの?
アフリカ、南米とかは行ってないんですけど
まあ、だいたいのツアーで行くような国は。
ツアコンになる前から「地球の歩き方」(笑)とかもって
バックパッカーしたりしてましたけど。

住職的にはインド一押し!だそうで、
(もちろん仏教発祥地)
今、67歳だけど、60歳から仏教の勉強を始めたんですよ。
???え?、住職、このお家に生まれたときから修行でしょ~?
んーーー今、哲学として勉強しなおしてるの。

ガンダーラ仏の話や、パキスタンやインドの国家情勢から
エア・インディアのCAは昔は若い女性が多くて
サリーが素敵で、ちらっと横腹が見えた!とか
住職、それ煩悩まみれ~~~って突っ込んであげたり(?)
ーで煩悩の話に飛んだり
初めてパキスタン航空に乗ったとき(私が)
緊急時の説明がモニターに流れた後
それでは旅の安全をアラーの神に祈りましょう~でびっくりしたこと!
(昔、エジプト航空でも、たまに乗客がトイレ付近で毛布敷いて
お祈りしてる方がいましたねー)
セクシーな制服といえば、シンガポール航空いいんじゃないですか?
などなど、横道?方面から、
私が個人的に謎な、ほとんどの宗教は、平和や愛をうたっているのに
ほとんどの戦争は宗教がらみなこと。
神様と取引してはいけないという教えもあるけど
仏様とも取引してはいけないと教えるの?とまじめトークまで。
斎場からの帰りの車の中も、あれこれ話しが弾んでしまいました。
旅もそう高くない航空券を手配して、現地の宿も安いところに
泊まるのだそう。お坊さん、高額所得者なのにねーとか思いつつ。

お寺に戻って、弟たちが四十九日の法要の手続きをしたあと
住職が一冊の本を手にとり私の元にいらして下さり
「がんなんだって?」とたずねられたので
「はい。数日前に再発が分かりました。」と答えた。

「現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く」という一冊の本と名刺を下さった。
なにか知りたいことがあったら連絡して下さい、と。
現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く
(2008/07/18)
親鸞仏教センター

商品詳細を見る


旅の話、宗教(私の場合、なかなか「信心する」というところには
いかないのですが「宗教学」的なことには興味あります)
もしかしたら、また、お話をする機会があるかも?

午前中、一軒法事があって、ちょっと飲んでしまいました~
と耳を少し赤くしながらお経を上げて下さったけれど
人間味溢れる住職さんでした。


ブログ村に参加しています。ワンクリックお願いします♪
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村 
家系樹 ファミリーツリー | コメント(16) | トラックバック(0)

それぞれの癌 それぞれの人生

2014年01月05日
「お正月」のうちに、しばらく会ってなかった母方の親戚と
唯一関東圏にいる父方の伯母(父の実家・本家は広島)のところに
顔を出そうかな~と思いつつも、連日の外出は辛いなーと
一番やりたいことのための外出のみで過ごした、年明けからの4日間。
元旦と3日は、ほぼ在宅。2日と本日4日は、自分の好きな(大好きな)テリトリーへ。

帰宅車内でふと携帯を見ると、ふだんほとんど接触のない従姉妹の携帯からの着信履歴と
その実家、叔母の家電からの着歴。親族の誰かに何かあったかな?という不安がよぎる。
電車の中だから、コールバック出来ないとメールを打つも返信なし。

家に着いてから、叔母の家に電話をかけ、昨夜、叔父が亡くなったと知らされた。
20年前に胃がんを患い、8年前?くらいに大腸がん。5年の経過観察も過ぎ
完治と考えても良い状態だったらしいけれど、昨年、肺への転移が見つかり
肺を一部切除したそう。一昨年、別の叔父の葬儀で会った時は元気そうだったのに。
当初は肺がんとの診断だったらしいけど、後に大腸がんからの転移・再発と訂正され
残念ながら、オペ後もあちらこちらに増悪し続けてしまった、
ただ、最後は苦しむこともなく(緩和ケアをしっかり受けていたので)亡くなったと…

涙声での叔母の話を聞きながら、私は逆に、癌患者となった後も
長く生きることが出来て良かった、羨ましいとさえ思ってしまった。
82歳。男性の平均寿命以上に生きることも出来て。
人と比べての幸不幸ではないとはいえ、
幼い子供を残して旅立たなければならなかった
若きサバイバーさんたちのことを想うと、
叔父は、サバイバーとして十分な予後を過ごせたのだなぁと。

叔父とは血のつながりはないのだけど、エンタメ好きで
とある歌手の(昔は結構ヒット曲もあった)後援会会長をしていて
従姉妹の結婚式では、もっとも重要な来賓として、その大ヒット曲を披露。
叔父も鼻が高かったんじゃないかな?
家族にしてみれば、もちろん、もっともっと長く共にいたかったでしょうけれど
十分、生きた人生だったように思う。
(ヒトの人生について勝手に決めつけるのもなんですが・・・)



父方の伯母とは、昨日電話で話した。91歳。
私が会うことのなかった従兄弟。3歳の息子を亡くしたことがある伯母。
その伯母の配偶者、亡き伯父が歌人だったので、
そのときの様子は、私家版の手記として出版されたから
だいたいの状況は知っている。私が成人過ぎた頃から、当時の辛かったことなども
話してくれるようになったし。病名ははっきり分からないのだけど
最期は血を流しながら亡くなったと。3歳の子供が…
助かることがないと分かっていながらの看病はどんなに辛かっただろう…

その後生まれた子、従兄弟のTは大切に、やや過保護気味に育てられた。
有名大学を出て、有名企業に入った。研究者としてはその頭脳を発揮できたけれど
大きな研究機関での「研究者」としての時間は短い。30歳半ばを過ぎると
一般職的な立場となり、40歳を過ぎたあたりから中間管理職として、
上司と部下の間に挟まれ、穏やかな性格の従兄弟はうつ病となり
休職ののち退職。その後も働けたり、働けなくなったり。

その従兄弟が昨年、肺がんを発症していたと知らされる。
伯母は長生きしすぎたと言っていた。
自分より先に死なないでくれと言ってあるのよ、と。
息子を二人とも自分より先に亡くすことになるのは耐えらないでしょう。
私のこともあるし、私の生母が苦しみぬいたこと
その看病をしていた私の父、伯母にとっては実弟の辛かった人生。
いろんな事を吐露していく…

とりあえず、Tくん(私より結構年上だけど、伯母と話すときは「くん」
になってしまう)と私は、伯母より絶対先に死んではいけない!
それでも、Tくんにとって、母親が存命であるということは
心の拠り所だろうから、伯母にも、もうちょっと頑張ってもらわないといけない。
年相応に不調はあるけれど、寝たきりとかでもないし、頭もはっきりしている。
もちろん、私にとっても、大切な伯母。生母の闘病中、
一時、預けられていたこともある。

三人に一人は癌になり二人に一人は癌で死ぬーと言われている時代。
ああ、こんなにも身近に癌はあり(私がこの様な状況なので知らされてなかった)
皆、闘って(?)いるのだなぁ。どんな風に向き合い
どんな風に治療を選択していくのか、話してみたい(みたかった)ような気もする。

ある意味醒めているのかな・・・自分。
あまり、身内だからといって可哀想とか同情心的なものは沸いてこない。
サバイバーとして、同志のような気分?
(従兄弟の件に限って言えば、お嫁さんの方が大変なような気がする。
長男が自閉症だし←でも成人して作業所で働けている。
娘の方も、ひきこもり気味らしいので・・・)
それより、まだ学齢期の子供がいる、ブロ友さんの方が心配だったりするのです。



ランキングに参加しています。ワンクリックお願いします。
↓↓
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ
にほんブログ村
家系樹 ファミリーツリー | コメント(10) | トラックバック(0)

夢・・・悪夢?

2014年10月19日
弟が少年野球の練習に行くという。4年生か5年生くらい。
少年野球なんてやっていないのに。

早朝。継母が送り出そうとしている。

そろそろ父も起きだしてくるころ・・・

違う、父は居ない。死んだのだ・・・
(実際は弟が中1の時)

継母が私に骨壷を渡そうとする。
貴女に渡してないものがあるからと。

2つは四角い小さな小物入れのようなもの。
やはり四角い白い大理石のようなものが詰まっている。
もうひとつは、小さな骨壷型の骨壷。
蓋が開いていて、
私は、何か細菌のようなものが舞うのではないかと心配になってくる。

それは、小さな私の骨。
何故、生きている私が自分の骨を抱いているのかが分からない。
夢の中で、そう考える。

一度は、薬で治まった痛みから目覚める。
疼痛薬は6錠しか貰ってないのに、また服用してしまって足りるかな?
少し熱も出てきたみたい。
これは、夢じゃないね?自分、今、覚醒してる。

父が癌になった私を見なくて良かった。

でも、父が生きていたなら、どんな苦しいときも
全世界が敵になっても、私の味方になってくれるだろうと思った。
だけど、こんな私を見るのは父にとっては辛すぎるだろうから
そうでなくて良かったのだ・・・・・と思い直す。

父の夢を見るとき、いつも、夢の途中でこんな風に
え?でも死んだはずだよねーと意識する。
そうするとたちまち夢の中からも消える。

明日にはもう少し楽になっているかな。
今日も眠って過ごすだろうから優しい夢を見せて。


ランキングに参加しています。ワンクリックお願いします。
↓↓
にほんブログ村 病気ブログ 乳がんへ

にほんブログ村
家系樹 ファミリーツリー | コメント(4) | トラックバック(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。